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| 画一性と多様性 |
今や当たり前のようにいわれる個性あるいは個人を主張することの重要性が叫ばれだしたのは、一体、いつ頃だったろうか? 僕は現在35才である。高度成長期で育ち、働き始める頃にはバブルが崩壊し、社会に対する「安定」が「不信」へと変わっていくのを体感してきた世代である。たぶん、その不信が溢れだした頃だろうか。
個性とは本来、他人との相対的なものだけではなく、絶対的にある自分の一部分を見つけだす行為そのもののことである。間違った相対的(ブランド的)主張によって、それに抵抗することを放棄した建築が蔓延しつつある。技術進歩によって実現される柱のない吹抜け大空間はこれまで住宅以外のものであったが、住宅に要求され、集合住宅にまで及んでいる。
それはそれで良いが、問題は本来の多様性が画一的にブランド化したことと、主張される個性の多様性を言語のみで片づけてしまう建築(箱)が存在し始めていることである。「デザイナーズマンション」とか「スケルトンインフィル」と呼ばれるものは、「デザインしないデザイン」として棲む人の多様性に合わせて、打放しコンクリートの箱を用意する建築プログラムである。デサインは主張するべきものではないが、果たしてそういった建築(箱)に本当の多様性を補完する自由なプランニングが可能なのであろうか? |
| 工作キット |
| 空間は相対的(対比的)なものとして存在する。天井の高い空間(白)もあれば低い空間(黒)も存在してこそ多様な空間が生まれる。身を置くだけのものではない空間で人が生活する時、時間の変化と個性の変化に対しては、一元的な空間(箱)のみのプログラムでは対応しきれない。結局、打放しコンクリートの箱から脱しきれず、ある種の受動性を強いられる結果となる。 |
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| 工作キット1号 |
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| 工作キット2号 |
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また一元的な箱では、設計者が建築家・ゼネコン・ハウスメーカーであれ、その設計に個性はなく画一的な空間プログラムが蔓延してしまう。建築家が存在しなければいけない理由はどこにもないが、人が生活する時、そこには否応なくリアリティが存在する。そのリアリティを本当に補完するためには、ある「きっかけ」が必要である。それが建築(箱)の中の装置(小さな箱)で、いわゆる「アーキファニチャー」と呼ばれるものである。
その装置を探し出すことが設計する人間の個性となり、装置をどう使いこなすかが使う(棲む)人の本来の個性となる。装置は特化した技術を必要とせず、誰もが考え実現できるものであり、「建築」というよりは「工作キット」と呼ぶほうが相応しい。幼い頃プラモデルを組み立てたように、小さな建築をつくるのである。積極的に使い(つくり)始めた途端に自由度と楽しさが生まれ、自分の中の絶対的な個性を発見できるのである。そんな「建築的ユニット」を模索していきたい。 |
| 工作の延長としての建築 |
安価で転換が自由な「工作キット」は、住宅リフォームのコストに対する非合理性とその場限りとしか思えない空間づくりにも大きな効力を発揮する。現在、小さなワンルームアパートにプラスワンユニットを持ち込むことで、空室率の上昇を防ぎ、低下し続ける賃料を上げようという挑戦をしている。
建築家がこれまで無視してきたあるいは気づかなかった分野での建築の荒廃ぶりはすごい。バブル期に建てられた多くのひどい箱、箱、箱。日本の風景がケーキハウス(りかちゃんハウス)に変わることを知りつつ、自分のプライドのために棲み分けをしてきた建築家の責任は重大である。本来、建築家は社会的な職業であるはずだが、いつの間にか敷居の高い芸術家、専門家になってしまった。
建築をつくるという行為自体はそんなに特化されたものではなく、工作の延長にすぎない。だから、そんな感覚で住空間を楽しくつくり続けていこうと思っている。 |
住まいの話題[73]執筆者
■田中 克昌(たなか かつまさ)/ 工作キッズ |