■住まいの話題[127]:建築と生活 (あるいはモノとコト)
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建築家の建てた家は住みにくい、あるいは使いにくいとよく耳にします。また一方には、美しい空間がひどい使い方をされていると嘆く建築家もいます。この不幸なすれ違いは一体何に起因するものなのでしょうか。人の行う様々な「物事」(モノゴト)が、物(モノ)と事(コト)とに分けて扱われていることがひとつの原因なのではないかと僕は考えています。

住宅は生活の器か?

住宅は生活の器、とも言われることがありますが本当にそうなのでしょうか。生活というコトと器(住宅)というモノが、相異なるふたつのもののように考えられていることが不幸なすれ違いの始まりのように思えるのです。モノとコトは時間を通じて「生きられた空間」、あるいは「場」という言い方も出来ますが、を作り出します。時間の中で様々な場を作り出す住宅は、生活者にとっての器と言うよりむしろ道具と考えられるようにも思えます。

また、生活は住宅もその一部に含められる様々な物と結びついた作法とも考えられるのです。刀に剣術、茶碗に茶道があるように、日常生活もまた、様々な物と行為が結びついた、時間を伴う「型」を持っているのではないでしょうか。但し剣術や茶道のように意識されたものではなく、人がものを考えるときの言葉のように無意識に用いられている規範のようなものです。

日本の住宅は、もともとそれぞれが部屋(器)になっていない連続した空間を、建具や衝立のような道具立てを用いて仕切る方法で使われて来ました。そのような道具と作法による場の作り方は、住宅その物よりも大事な「しつらい」と「ふるまい」が分かちがたく結びついた生活空間を生み出してきました。

住宅例1:リビングより階段のある
コンサバトリーを見る
住宅例2:テフロン膜屋根と大きな開口部
物と作法を考えよう

それに対して雑多な物やスタイルに満たされた現在の暮らしでは、生活の行為やスタイルに合わせて物や容れものが当てはめられています。社会と共有して持っていたはずの生活空間の大半が売り買いできる個人資産にゆだねられてきたからです。スタイルや感性の部分でも多様化は進んでいます。個人個人が好みの生活やスタイルを自由に選べるようになった反面、受け入れがたい使い勝手や空間表現も多様化しているようです。

コトとモノの合わない建て主と建築家のすれ違いも、そこに生まれています。資産の個人化と価値観の多様化のなかで選択肢のみは増え続けます。設計者を選ぶ場合も、多くの場合は建て主と生活感を共有できる設計者、つまり建て主の好みに合った設計者を選ぶというコト・モノ対応の拡大解釈による「棲み分け」が解決策になっているようです。棲み分け、というよりも消費者の自由な選択を僕は否定しませんが、そのどこかに置かれている僕自身は少し疑問を持っています。

建築家と呼ばれる人々も建て主も、もちろん個人の経歴によって異なりますが、敗戦から現在に至る驚異的な、けれども多くの大事な物を置き去りにしてきた経済復興の中を生き、教育を受けてきているからです。お金で購えるモノとコトの専門家は多く育てられた反面、僕たちは生活の豊かさや社会資産とも言うべき環境や美しい街並みをなくしてしまったのかもしれません。

結局、今僕たちの持っているストックは貧しいものだと思わずにはいられません。貧しい生活空間のバリエーションを選べる自由は生活の豊かさとは無縁です。けれども、人の創造力や、あり合わせの中に生活を組み立てる力は捨てた物ではありません。生活よりも優先されてきた産業の生産物も創造力と生活の力によって組み立て直されれば、人のための豊かな環境ともなり得るのです。

もはや捨てるところもない物の滞積した環境から僕たちは逃れる術がありません。ならば、建築の建て主も建築家も、人の生活をより豊かなものとするように、物と作法を共に考え続けてゆくしかないのだと覚悟しています。

住まいの話題[127]執筆者
■高橋 真(たかはし まこと)/ MTA/株式会社高橋真建築設計事務所

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