それに対して雑多な物やスタイルに満たされた現在の暮らしでは、生活の行為やスタイルに合わせて物や容れものが当てはめられています。社会と共有して持っていたはずの生活空間の大半が売り買いできる個人資産にゆだねられてきたからです。スタイルや感性の部分でも多様化は進んでいます。個人個人が好みの生活やスタイルを自由に選べるようになった反面、受け入れがたい使い勝手や空間表現も多様化しているようです。
コトとモノの合わない建て主と建築家のすれ違いも、そこに生まれています。資産の個人化と価値観の多様化のなかで選択肢のみは増え続けます。設計者を選ぶ場合も、多くの場合は建て主と生活感を共有できる設計者、つまり建て主の好みに合った設計者を選ぶというコト・モノ対応の拡大解釈による「棲み分け」が解決策になっているようです。棲み分け、というよりも消費者の自由な選択を僕は否定しませんが、そのどこかに置かれている僕自身は少し疑問を持っています。
建築家と呼ばれる人々も建て主も、もちろん個人の経歴によって異なりますが、敗戦から現在に至る驚異的な、けれども多くの大事な物を置き去りにしてきた経済復興の中を生き、教育を受けてきているからです。お金で購えるモノとコトの専門家は多く育てられた反面、僕たちは生活の豊かさや社会資産とも言うべき環境や美しい街並みをなくしてしまったのかもしれません。
結局、今僕たちの持っているストックは貧しいものだと思わずにはいられません。貧しい生活空間のバリエーションを選べる自由は生活の豊かさとは無縁です。けれども、人の創造力や、あり合わせの中に生活を組み立てる力は捨てた物ではありません。生活よりも優先されてきた産業の生産物も創造力と生活の力によって組み立て直されれば、人のための豊かな環境ともなり得るのです。
もはや捨てるところもない物の滞積した環境から僕たちは逃れる術がありません。ならば、建築の建て主も建築家も、人の生活をより豊かなものとするように、物と作法を共に考え続けてゆくしかないのだと覚悟しています。