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| ソウゾウリョク |
音楽はフシギだ。そもそも音楽的素材としての「音階」自体には何の優劣もない。「私はドよりもミの音のほうが好きだ」などという人にはいまだかつて出会ったことがない。
私たちの遠いご先祖様が自然界にごちゃまぜに混在する「音」から、なんらかのインスピレーションを受け、それを自ら「表現(あるいは再現)」する意図で便宜上設けた区分が音階の起源であったのかもしれない。その真偽はともかく、それ自体「何の優劣もない」はずの音階は、時として作曲家や演奏者の表現を通じ、人の情動を揺さぶるとてつもない「価値(チカラ)」を生み出すことがある。
私たちは音楽を通じて楽しい気分になったり、悲しい気分になって涙を流したり、感動して鳥肌がたったりすることがある。そのようなとき、人は音楽を自らの身をもって多彩に「表現」しているようにもみえる。
良い音楽には必ず「想像」を喚起するなんらかの「差異(チカラ)」が存在すると思う。それは一方的に与えられるだけの受動的な経験などではなく、演奏者と聴き手が互いに表現しあうような「創造的な」関係をもたらしてくれる。だから反復的な音楽経験を通じ、もはや何も喚起されない状態に至ったとき、私たちは「聴き飽きた」と感じるのかもしれない。
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| 予測不可能な限りの未来 |
形式はなんであれ、表現的な行為は与えられた公式から右方向に可能的な解答を導き出すことでは決してないと思う。住宅の場合、例え機能的な要望に答えることは必要条件であっても、それだけでは住宅としての十分条件ではあり得ない。
実際、与件は表現の過程のなかでその都度読み替えられ、価値転換されていく場合が多いし、住み手にとっての「予測されるがままの」住まいを提案することは、結果的にその人のソウゾウ的な生活の自由を奪うことになる。未来は現時点で予測される限りの「可能性」などではなく、予測不可能な限りにおいて、私たちに「未来」として開かれているのだから。
つくり手である以上、プランを準備するような計画上の予測作業はあるにせよ、住宅が建ち上がった時点からは、つくり手の創造した場が「与件」となり、今度は住まい手がそれを読み替え、表現していくような未来の生活を提案したいと考えている。
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| 断面上の連続面により分節された住宅 |
平面上の3区分に対して異なる3断面を併せもつ住宅 |
| 区分を設けること |
小節やリズムで音をしきったり、音の強弱やコードを細分化することで、楽譜は多様な表現手段として活用される。だから区分を設けることは「表現」することと無関係ではない。
一方、図面は建築を表現する有効的な手段である。しかし図面も(居住前の)住宅も、共に「生活の表現手段」という意味ではいまだ演奏前の楽譜と同じ「モノ」の位相にあるように思う。住宅は素材や光を使い分け、間仕切ったり、分節したり、強弱をつけたりして生活表現の準備をするが、それ自体はまだ「表現」ではないと考えている。
前述の通り、表現とは右方向に導き出される「表象」的な解答ではなく、他者との間で何かが変換される時間的な「コト」の位相にある。素材、あるいはその組合せが発散するチカラというのは確かに存在するけれど、それは人がモノに差異(チカラ)を読み取る努力としての「想像力」を行使する限りにおいてであろう。
個人的な記憶と結びつきイメージや風景を喚起する音楽があるように、メロディーを喚起するような住宅をいつか提案できたら、と思っている。 |
住まいの話題[207]執筆者
■田村 秀規(たむら ひでき)/ PODA一級建築士事務所 |