新しい建築のおおらかさを求めて

社会は今、多様性や寛容性を求めています。
その要請に建築家はいかに応えようとしているのか。
作品を通して探ります。

チームでものごとを考える

第4話

チームでものごとを考える

渡邉竜一 株式会社ネイ&パートナーズジャパン

2018.09.30

チームワークはリーダーシップとフォロアーシップのバランスが命。その時求められる「自主性を許容する精神」について、構造デザイナー、渡邉竜一が語る

公募型プロポーザルから4年、2017年にようやく架橋となった「出島表門橋」について、概略をお聞かせください。

渡邉竜一(以下、渡邉):出島は、ご存知のように江戸時代の鎖国の象徴のような小さな人工島で、かつては4.5mの小さな石橋でつながっていました。明治に入って橋が架かっていた中島川の川幅が30mに拡幅され、周囲が埋め立てられ、今では出島は島ではありません。その復元整備事業は実は1951年にスタートしたもので、長崎市はそれからちょうど100年目となる2050年に出島を完全に復元しようという計画を進めています。その長い計画の途中の2013年に実施されたのが、昔あった位置に橋を架けるというプロポーザルで、僕たちの案が最優秀に選ばれました。そのときの要件は2つ。一つは出島は国指定の史跡のため、出島側に橋台を設けてはいけないということ。もう一つは文化庁からのもので、復元と誤解されないよう、昔風のものではない現代の橋にするということでした。そこで、僕たちは2つのコンセプトを立てました。一つは橋脚を立てない。法律(河川管理施設等構造令)上は、橋脚は1本立ててもよかったのですが、長崎は水害もあるし、できれば河川内に橋脚はない方がいいだろうという判断です。もう一つは、出島を見に来る人のための橋ですから、出島の風景を邪魔しないよう、上部に構造物をなるべく出さないということでした。
橋長は、正確にいうと38.5m、メインスパン33.3mを出島の対岸、江戸町側から5.2mの支点で支えています。基本はテコの原理で、江戸町側につくった橋台が重しになって引っ張る、つまり「片持ち」という、橋としてはかなり特殊な構造になっています。基本構造は、主桁2枚の鋼板(sm570材)と座屈止めの補剛材、横桁、ブレースから成りますが、多数の開口部を設け、出島が透けて見えるような意匠にしています。さらに、船から見上げる可能性もありますので、下から見てもきれいなつくデザインを考えました。つまり、スチールの構造部材がそのまま意匠部材でもある。一方でこうした構造は、高度な溶接技術が必要ですが、もともと長崎には製鉄、造船に高度な技術をもつ企業が多数あり、船だけでなく橋も多数つくってきたという歴史があります。そうした地元の企業と一緒につくりたいと考えました。塗装も「風景に溶け込む」というコンセプトから、出島の建物に象徴的な瓦のような鈍い光り方をするステンレスフレーク入りフッ素樹脂塗装という特殊な塗装にして、光の当たり方で暗く沈んだり、真っ白にとんで見えたりする。こうした色彩と、多数の開口部で陰影をつけることによって、遠くから見ると本当に橋がどこにかかっているか気付かない人もいるくらい、風景に違和感なく溶け込んでいると思います。

【写真】出島表門橋 長崎市 2013年~

出島表門橋 長崎市 2013年~
写真:momoko japan

デザインを批判する声もあったそうですね。

渡邉:基本設計時点から設計内容はシンポジウム等で公開されていたのですが、詳細設計に入って橋の形がより具体的になってきた2015年くらいから、地元住民がどう思っているのかが気になり、市役所にお願いして近隣住民説明会を開催してもらいました。そうすると地元の人たちは、昔の小さな石橋が復元されると思っていて、「想像していたものと違う」「そんな橋ならいらない」など、新聞にも反対する投書が掲載されたりしました。そこで、地元の人の意見をもっと聞きたいと思い、長崎に通い話を聞くこととしました。そうすると少しずつ地元の人たちの反応も変わってきた。さらに地元のコンサルタントと一緒に「出島ベース」という任意団体をつくり、地域住民が参加できる様々なイベントを企画、運営し、架橋の瞬間まで皆さんに参加意識をもってもらった。さらに、架橋後も市民が自主的に清掃活動をする「はしふき」などにつながっています。設計者、住民、施工者など関係者が、ずっとこの4年半という時間の中で、いろいろな人と出会いながらやってきました。設計を考えながら、人を繋いでいく、その両方を進めたのがこのプロジェクトです。

2009年から3年ほどベルギーのNey & Partnersに勤務されています。どのようなことを学びましたか?

渡邉:ネイはもともと構造エンジニアで、彼の事務所では、彼と僕と、あともう1人が常にコンペ対応要員でした。もともと、僕らの仕事はチームでコンペをとっていかないと仕事にならないので、コンペのためのアイデアを考えるのが主な役割でした。その中で、地域住民をどう参加させるか、地域のために、たとえば橋をいかにつくるか、要するにたくさんの人たちがかかわりながら設計するということがどういうことなのかを学んだように思いますし、そこが日本にいたときと決定的に違うところでした。いわゆる技術的なことよりも、一番大きかったのは、チームでものを考えるということですね。

チームで考える時にはリーダーシップとフォロアーシップのバランスが重要であり、そこにおおおらかさが必要だと思います。

渡邉:おっしゃるとおりで、出島のプロジェクトもそうでした。地元住民の人たちと一緒に何かしようとすると、すべてはコントロールできない。思った方向にまず進まない。そこで「出島ベース」という団体をつくって、僕たちと地元のコンサルタントが中心メンバーになり、そのまわりにいろいろな人が集まって相対的に動かしていこうとしたのですが、彼らは彼らで自分たちの想いがあるので、全部をコントロールしようとすると物事が動かなくなる。全員を同じ方向に動かすというのは不可能です。彼らは僕たちをサポートしてくれますが、その動き方もそれぞれで、そういう意味では、あるところで許容しないとものごとは進まない。そういうことをこの出島の仕事で改めて学びました。つまり、全部コントロールするとチームは動かなくなる。ある程度自主性をもたせながら、誰かが責任をとらないといけない局面では、リーダーが決定する。そういう組織のあり方は、ベルギーで見て体験してきているので、僕にとってはとても大切なところです。別の言い方をすると、ある程度ヒエラルキーはつくるが、決定するまでの過程は基本はフラット。役割分担もあまり明確にしない。そうすると自主性が出てくる。でも放っておくとコントロールできなくなるので、最後に決めなければいけないときはヒエラルキーのトップが決めるということです。

帰国されてネイ&パートナーズジャパンを設立されています。日本での最初の仕事は何ですか?

渡邉:カールハンセンというデンマークの家具メーカーのショールームの小さな階段です。三角形の螺旋の階段で、全溶接でつくるのですが、これができるところはかなり限られる。そこで最初にできるところを探すことから始めました。僕たちはこうした鉄骨のファブリケーターを何社かつかまえていて、彼らだからできる仕事というのがあります。実はそれも僕らの強みの一つで、設計もそうですが、実際にいかにつくるかというところまで、しっかり自分たちで考えられる状態にして、僕らで分からないところは、ファブリケーターに相談すればすぐに回答が返ってくる。そうするとコストのコントロールも確実にできるわけです。その最初のきっかけが、カールハンセンの階段で、これがあったからこそ、その後の札幌の路面電車停留所(2012-15年)、熊本の三角港キャノピー(2013-16年)、さらに先ほどの出島表門橋へと繋がっていく。そういう意味では非常に重要な仕事だったと思います。

【写真】カールハンセンショールーム階段 東京都渋谷区 2013-14年

カールハンセンショールーム階段 東京都渋谷区 2013-14年
©momoko japan

橋や階段にガラスを使う、あるいは検討するということはありますか?

渡邉:実は僕たちは今、ガラスの高欄をいろいろなところで提案しています。ただ、自立型のガラスの高欄は、公共のプロジェクトではなかなかハードルが高い。現在進行中のプロジェクトでも、透過性の高いものにしたいという意向があって、高透過強化ガラスの合わせを使った高欄を提案しています。最近は薄くて強度の高いものが出てきているので、本当はそういうものを使いたいのですが、なかなかハードルが高いですね。三角港のときは、光学ガラスを支柱のトップにつけて、照明のカバーとして使ったりしています。また、札幌の路面電車の停留所は、停留所の前のスクリーンが高透過強化ガラスの合わせで、3.5m×12mという大判を提案しましたが、最終的にはメンテを考慮して分割しています。

【写真】札幌路面電車停留所 北海道札幌市 2012-15年

札幌路面電車停留所 北海道札幌市 2012-15年
写真:momoko japan

【写真】三角港キャノピー 熊本県宇城市 2013-16年

三角港キャノピー 熊本県宇城市 2013-16年
写真:momoko japan

今後の活動の展望は?

渡邉:事務所としては、人をもう少し増やしていくと思いますが、これまで日本でやってきたことは、プロジェクトのレンジとしてはかなり特殊で、例えば橋梁を中心に、鉄道の駅、駅前広場とか、どちらかというとインフラ、土木に近い。現在取り組んでいる横断デッキなど、屋根がついているものは建築物になるし、屋根がなくなると土木構造物になるという、ちょっと不思議な世界なのですが、そういう領域の設計は、実はこれまでちゃんとやってきた人がいないので、まだまだできることがたくさんあると思っています。

【写真】渡邉 竜一氏
渡邉 竜一 わたなべ りゅういち/株式会社ネイ&パートナーズジャパン代表取締役
1976年山梨県生まれ。99年東北大学工学部建築学科卒業。2001年東北大学大学院工学研究科都市建築学専攻修士課程修了。2001-08年土木デザイン事務所(東京)勤務。2009-12年Ney & Partners(ベルギー)勤務。2012年~株式会社ネイ&パートナーズジャパン代表取締役。
写真:momoko japan

インタビュアー

中崎 隆司 なかさき たかし
         
建築ジャーナリスト・生活環境プロデューサー。生活環境の成熟化をテーマに都市と建築を対象にした取材・執筆、ならびに展覧会、フォーラム、研究会、商品開発などの企画をしている。著書に『建築の幸せ』『ゆるやかにつながる社会-建築家31人にみる新しい空間の様相―』『なぜ無責任な建築と都市をつくる社会が続くのか』『半径一時間以内のまち作事』などがある。

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